社長の想い
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初めまして。いっつもニコニコいろは造園の西原輝と申します。自己紹介を兼ねて、私の想い・お庭作りに対する理念をお話できればと思います。
『 幼いころの私 』
私の父は、曲がったことが大嫌いで子煩悩で凄く優しい庭師でした。
母はいつも明るく、何事にも前向きで、庭園設計士として父を支え、二人三脚で造園屋を営み、私を育ててくれました。
父の物造りのルーツを引き継いだのか、私は小さい頃から、ブロック遊びやプラレール、秘密基地や水鉄砲、ブランコを作ったりという、物を作る遊びが好きでした。
小学3年生の時です。私は『ヒカル』という名前なので、兄の友人に「頭が光る~。お前、女みたいな名前だな!」とバカにされ、その日の夜、父といつも通りお風呂に入っていた時に聞きました。
「お父さん、なんで僕に『ヒカル』って名前を付けたの?」
父は「お前は将来、社会に対して光輝く存在になるんや。それだけじゃなくて、お前の周りにいる人を光り輝かせる存在になってほしい。そういう想いを込めてお母さんと一緒に『光』(ヒカル)じゃなくて『輝』(ヒカル)にしたんや」と言われました。
それからは、自分の名前が大好きになり、中学に入ってからは担任の先生にも「輝っていい名前やな~!」と言われ益々自信を持つようになりました。
中学の三者懇談では先生が「お母さん。輝君は何も言う事がないです。遅刻も欠席も無いし、友達とも仲良くしているし、部活も頑張っているし。」というのが今では母の自慢話になっているようです。未だに母にもよく言われます。(笑)
小さい頃から父と母は、私に「人に迷惑だけはかけたらあかんよ!」ということと、「自分がされて嫌なことを、人にするな」という事を何度も口にしていました。
今思うと、ずっと同じ事を聞かされていたので、知らないうちに自分の中に「ストン!」と入っていたのでしょう。
祖母は「あんたは一番優しいし素直や」と言ってくれました。
その後、あっという間に高校を卒業し、父の元に弟子入りしました。
『 庭師として… 』
弟子入りと言いましても、バブル崩壊後から各業者が価格の叩き合いを始め、お仕事を頂いていた大手ハウスメーカーさんや元請け業者さんからは「西原さんとこより安くでやってくれるところがあったので…」と、何年も取引してきた元請け業者さんからの仕事も減り、生活するのがやっと…という状況でした。
母が必死の思いで這いずり回って、頂いてきたお仕事を父と二人でこなしたり、植木の剪定をしたりと少しづつですが、周りの方からもご紹介頂き、何とか生活ができているという状況でした。
当時の私は朝から晩まで父のもとで修業し、腕を磨いていましたが、お給料は" 0 円"でした。たまにお小遣いで5,000円ほどもらえる程度でした。
家が厳しいという状況は18歳の私にでも理解できていました。
本当に悩み…たくさんの先輩方に相談し、自分の将来どうしようかと悩みました。
そんな時、介護職に就かれている先輩に
「うちの職場で夜勤募集してるから、おいでよ!ただ、あんたは優しすぎるから、もしかしたら向いてないかもやけどな…とりあえず資格だけ先に取っておいで!」と言っていただき、父に相談し、土日を使って介護士の資格を取りました。
私「お父さん。俺造園やりながら、外で少し働いてくるわ!そしたら少しでも家が楽になるやろ?お父さんの体の負担は少し増えるかもやけど、お金の負担は減るかなと思って」
父「家の事は気にするな。お前はお前の生きたいように生きればいい!自分の好きな事をやれ!」と言ってくれました。
その後私は、介護施設にて夜勤の仕事をし、夜勤が終わってから造園の現場へ行き、父と作業をするという生活をこなしていました。
さすがにフラフラになっていたのを今でも覚えていますが、当時は本当に周りの先輩方や友人、職場の先輩方に支えられました。
本当に感謝しています。
その後、私は現場で父の作業を見ながら覚え、知らない間に少しずつこなせるようになっていきました。
『 偉大な父が… 』
私が25歳になり、身内の造園屋さんの親方に「輝も一端の造園屋になったな」と言っていただき、やっと段取りや作業が板についてきた頃でした…
父が「目の調子が悪いから眼科に連れてってくれ」というのです。
私は慌てて運転し、父を眼科に連れていきました。
先生の診断結果は、「加齢黄班変性」というものでした。
「治るのでしょうか?」と聞くと「うちでは難しいので、大きな病院の紹介状を書くのでそちらで見てもらってください」ということでした。
父は「右目だけやから、左があるから大丈夫や」と本気で言っていました。
その後、大きな病院に行き検査をしてもらうと、「大事なお話があるので、ご家族で来てください」と言われました。
先生「眼も心配ですが…大腸ガンです…既に肝臓に転移もしています…」
すぐに父は入院し、手術やお薬で処置をしてもらいました。
「何か私に出来る事は無いか…」と、いろいろ考え、気持ちだけでも明るく持ってもらえるように、家族の写真や気持ちが明るくなるものを飾り、落語が好きな父の為に落語のCDをたくさん用意して持って行きました。
しばらくして父が退院し、「家庭療養でいけることになった」とのことでした。
後で母から聞いたのですが、母は父から「もうあかんらしいから、家で過ごしたいんや。絶対に息子達には言うなよ」と言われたそうです。
それから数日後の夜、体調が悪化し、すぐに病院に行きました。
先生が「今晩が山場です…」
私は母に寄りかかり泣き崩れてしまいました。
母の方が辛いはずなのに、母は私に「大丈夫やから」と支えてくれました。
明け方、家族全員が見守る中、父は泣き言ひとつ言わず亡くなりました。
父が最後に言った一言は「早く仕事に行け。」ということでした。
私には「” お前の使命を果たせ ”」と言われているように聞こえました。
『 庭師・人としての誇り 』
私は本気で造園業を突き詰めました。父のようになりたくて。
キャリアのある母に図面の書き方や打ち合わせの仕方・現場調査の仕方や母の経験・知識を教えてもらい、必死に勉強しました。
時には全力疾走でチラシを撒き、「どうすればお客さんに笑顔になってもらえるだろうか?」
「どうすれば自分は人を輝かせることができるんだろうか?」と、常に考えながら突っ走ってきました。
同年代のお客様やご年配のお客様、たくさんのお客様に、いろいろなお話を聞かせて頂き、社会的な勉強もさせていただきました。
造園を勉強すればするほど、仕事が楽しくなり、造園業が楽しくて大好きになりました。
「どうやればお客様が抱えられている問題点を解消できるのか…」
原因をつきとめて、自分が設計したものが実際に形になり、そこで過ごすお客様が感動してくださり、こんなに素敵な仕事ができ本当に幸せを感じています。
妻も私と同じように植物やお庭が大好きなので、出かけても「このタイルおしゃれだね~」「この植物初めて見るなぁ!」なんて言いながら二人で過ごしています。
今まで走ってきた結果、
「西原さんにお庭をお願いして、自分達の仕事の在り方や生き方にまで刺激を感じました」と言ってくださるお客様がいたり、
「提案力が凄すぎる!ここまで私たちの事を考えてくれて、『家族の想い』を形にしてくださるのは西原さんしかいない!」と実際にお声を頂いたりもしました。
今の私は、まだまだ人として未熟な部分もあるかと思います。
ですが、自分の経験を通して今私が大事にしていることは
・「人に対して自分が貢献できるように生きる事」
・「人にやさしく、愛を持って接する事」
・「人の気持ちを考えながら発言・行動すること」
それは全て、私を支えていただいた周りの「人」から教えて頂いた事だと思います。
そして、偉大な父や母から付けてもらった「輝」という名前に誇りを持ち、「ご縁のあった方を明るく輝かせられる人間であること」、と考えています。
長々と自己紹介も兼ねて私の理念、庭師としての想いをお話させていただきましたが、
あくまでも主役はこれを読んでくださっているあなたです。
私の経験や技術・笑顔が、あなたの家族を明るく輝かせられるよう、庭作りを通して笑顔に、そして幸せになっていただけるよう全力で向き合っていきたいと思います。
「あなただから」と言われる職人であるために…